Jは祭りだ、共に生きよう

「加藤シゲアキさんと映画」について書きとめていくブログです

映画ピングレについての雑多な感想文

前回、映画『ピンクとグレー』のヒットとロングランを願い、多くの方に観て欲しいという目的のもと記事を書きました。
要約すると、「演者が素晴らしい。キャスティングの勝利」「本当は映画然とした映画にして欲しかったけどそれは難しかったのだろうから、ならばヒットして欲しい」「映画と原作小説はまったく違うので小説も読んでね」というような話でした。

manowaku.hateblo.jp

 原作者ファンとしてのこの映画への感想はそれに尽きるので、もうこれ以上このブログで言いたいこともないのですが、今後、加藤さんの小説が映画になったり加藤さんが映画に出演したりしてこれほど大盛り上がりすることも稀だろうと思い、メモ程度に「ふつうの映画感想文」も書き残させてください。

※とてもネタバレしています


 





※とてもネタバレしています



今映画にしたら『ブラック・スワン』とか言われちゃわないかなとか不安に思いながら観たら『Wの悲劇』だった。


というのが映画『ピンクとグレー』の感想。

小説『ピンクとグレー』で、原作者の加藤シゲアキさんは映画『パーフェクトブルー』を参考にしたと各所で仰っています。
同じく『パーフェクトブルー』を下敷きとした映画『ブラック・スワン』は、執筆当時は公開前だったのですが(日本公開は2011年5月、執筆時期は2011年2月~3月)、今『ピンクとグレー』を映画化するとなると『ブラック・スワン』のかげがちらついてしまうのではないかという懸念がありました。(ダーレン・アロノフスキーは下敷きにしていることを認めていませんが)

結論としては、「『ブラック・スワン』に掠るどころかまったく別方向に舵を取った結果、『Wの悲劇』になっていた」だなと思います。

映画『Wの悲劇』は、一人の若い女優が劇団のスキャンダルに巻き込まれながらも、それをチャンスに成り上がろうとする物語です。
原作小説の『Wの悲劇』はその劇団が演じる劇中劇という形を取っていて、物語のメインは小説とは違うオリジナルストーリーである主演女優の成長劇となっています。
映画オリジナルの役柄は、主演の薬師丸ひろ子さんの状況や心情と似た部分が多くあり、映画の役に主演女優を重ね合わせて観る楽しみもあったそうです。

なるほど『ピンクとグレー』もパッケージとしては「古き良き角川映画」の系譜なのでしょうね。
清純派アイドルの今まで見せたことのない姿を映し出し、アイドルではなく映画役者として踏み出す一歩となる映画。
主演の中島さんはスクリーンに映るたびに輝いていて、それはきちんと成功していると感じました。何の不満もない素晴らしい主演でした。
助演の菅田さん、柳楽さん、夏帆さんの実力は言うまでもなく、中島さんの21歳(撮影当時)の魅力がふんだんに詰まった良い"アイドル映画"だったと思います。
アイドル映画ってまったく悪い意味じゃないのだけど、意図と違うように伝わってしまいそうなので、ここでは「スター映画」と言い換えてもいいです。
この映画は事務所からの「うちは中島の役者仕事にはここまでOK出しますので、オファー時の参考にしてください」という良い名刺代わりになったと思います。
キャストが素晴らしいという話は以前したので、ここでは割愛します。


Wの悲劇』と違い、『ピンクとグレー』は劇中劇とそれを演じている役者のシーンが前半・後半できっちりと分けられています。
劇中劇のクランクアップ後から始まる後半は完全に映画オリジナル。
前半・後半の差をより明確化するため、前半はわざと「純・青春映画然」としたルックで撮り、色調をモノクロに変えた後半はこれもまたわざと「生々しさ」を演出してみせる。
監督も、「前半はわざと下手に撮りたかった、これ見よがしに撮りたかった」と仰っています。

原作者と原作者の置かれている環境(つまりアイドル・芸能界)を、映画監督・映画界に置き換えてメタ表現をしていて、映画ならではのアプローチだと思います。
世界が変わった後半、試写室の外のロビーで「ぶっちゃけどうでしたかこの映画」と話している成瀬とりばちゃん二人の後ろに、かなり分かりやすい形で原作者(加藤さん)と監督(行定さん)を配置し、カメオ出演させている。えらく皮肉な画づくりですね。
これは「あえてベタに撮った前半」を自ら否定しているように見せておきながら、オリジナル部分である後半に、相当の自信があるのだろうとうかがえます。

ですが、後半との落差をつけるためにあえてベタすぎる青春映画ふうにした「幼馴染3人のむずがゆくなりそうなほどの青春模様然り、前半との落差をつけるために、あえてカリカチュアされたキャラクターと世界観にした「実はどろどろした芸能界」描写然り、「あえてそうしている」部分があまりにもありきたりに感じられて仕方ありませんでした。
数十年前から繰り返し映画やドラマや小説や再現VTRや万人の頭の中で見た「醜悪な芸能界」と「在りし日の青春」、どちらもステレオタイプすぎると感じます。

あえて照れ隠しのように『転校生』ふうの演出をしなくても輝かしい青春感は描けるだろうし、菅田さんと夏帆さんというとても演技の上手いお二人に対して後半は演出過多にしすぎでは? この二人の他作品での演技を見ている限り、もっと抑え目でも醜悪さが表現できたはず。

後半に行くに従い筆が乗ってきて上がり調子におもしろくなっていく原作と違い、キャラクターが「本来の姿」を見せ輝き出すであろう後半に行くに従い失速していくのも残念です。興味の持続がはかれず、後半が冗長に感じられます。
行定監督作品はいつも長尺なのでこの作品に限った話ではありませんが、119分のうち10分は削れたのではと、観ている最中にも思いました。

「作品のテーマをセリフで説明する」シーンが多いのも、冗長に感じる一因ではないでしょうか。
とくにラストの、りばちゃんとごっちが決別するシーン。
ここで、この映画における一応の「結論」であるごっちの死の真相が明らかになります。二人の会話という、言葉による説明によって。
さらに、りばちゃんが足を向けたのは「劇中のごっちの家」。今はもう撤去されているであろう「映画のセット」です。
つまり、二人が対峙するシーンは現実世界で起こったことではないということです。
ごっちから「お互いに分かり合うなんてことはない」という言葉を投げかけられるというのも、りばちゃんの頭の中で考えた出来事です。
この映画における一応の「結論」が、この仮想世界での言葉での応酬というのも、不消化に感じました。

物語的に不消化であることは悪いことではありません。そういう映画は山のようにあるし、私は好きです。
ですが、その語り口が「りばちゃんが自分勝手に解釈して吹っ切れただけ」、というのはあまりに自分本位で、映画としてのカタルシスが弱いかなと思うのです。
そもそも映画のりばちゃんは最初から自分本位な人間として描かれているので、この設定ならばこの決別、吹っ切れ方で筋は通っていますし、監督もそのつもりで描いているのだとは思いますが。
「自分勝手だから・ダメな人間だから共感できない」ということではなく、悪人でもロクデナシでもダメ人間でも魅力的な主人公はたくさんいます。
ですが、この主人公の設定は映画を引っ張っていくには弱かった。その弱さを補ってあまりあるパワーと魅力が役者陣にあったので映画として成立していた、と感じました。


何より、この映画において最大の気がかりは、女性の描き方です。
行定さんの映画は常にこのような女性像なので、これがこの監督の作家性だと言ってしまえばそれまでなのですが、出てくる女性キャラがことごとく「実在感のないアイコン化した人物」でしかないのは、人物の感情の機微がテーマとなっている本作においては、ウィークポイントだと言わざるを得ません。

後半のサリーを「ただの追随する清純な女」として描いたことや、前半後半ともにサリーを「男の身勝手を受け入れてくれる女」として描いたこと、社長に媚びるファッション誌編集者、恋愛関係という単純化されてしまった鈴木姉弟、分かりやすい「ビッチ」というキャラ配置など、女は聖母かビッチしか存在しないというリアリティのなさが非常に気になります。

小説のサリーは、独自の価値観を持ったクリエイティブで意志の強い、自立した人間なのだと思います。子ども時代も、思春期も、美大生時代も、大人になってからも。
当時は作者の筆力が追いついていなかった部分があるだけで、そう描こうとしていたことは充分に読み取れます。

後半の成瀬、三神、そしてりばちゃんという「芸能界」のグレーの人物たちと対比するために、サリーは「穢れなき一般人の象徴」として描かれているのでしょう。
ロングのダッフルコート、チェックのマフラー、ロングスカート、ブーツという冴えない格好をさせられたサリーは、ダメな男にほだされて、心も身体も許し、養い、ごはんを作ってくれる「健気な」女性として描かれています。
映画内だって最後は2016年の設定ですよ。古き良き時代の設定の映画だって、今の時代に作るのならもっとキャラクターの描き方を工夫するというのに。

小説や青年漫画ならまだしも、2016年公開の映画なのになあ、2015年はあんなにもストレスなく観られる作品が豊富だった年なのになあと残念な気持ちになりました。

サリーはキャラクター設定だけでなく、扱われ方もかなり雑です。
劇中劇のサリーを押し倒すりばちゃん、現実世界でのサリーに八つ当たりをするりばちゃん、という「サリーには無関係のことでサリーの意思は無視して自分の激情をぶつける」シーンがあります。
自分より弱い(腕力の)人間にやるせなさを叩きつけることは、エモーショナルな印象を与えられますが、映画的な感情表現の仕方として陳腐に感じます。
そのどちらのシーンも、りばちゃんの激情にあわせて、外に電車が走るのですよね。電車の灯りが部屋を照らし、カーテンを揺らし、轟音を立てる。
『パレード』でも、衝撃的な事実が明らかになるカットで雷が落ちる演出をしていた行定さんらしい「分かりやすい」表現ですね。

高校時代にサリーを押し倒すりばちゃん、泣いたサリーを追いかけてフォローすることもなくりばちゃんを面白がってからかうごっち、というシーンにも、ずいぶんぎょっとしてしまった。
やっていること自体ではなく、これを2016年公開の映画で「他愛もない青春の甘酸っぱいエピソード。ばかだよね、ははは」と描いてしまっていることが、ぜんぜん笑えないです。

エモーショナルな表現としては他にも、ごっちの肖像がをりばちゃんが切り刻むというシーンがあります。
ごっちの影を払拭したいりばちゃんの視点に立つと、納得できる行動です。
でも、あれはサリーにとっては自分の創作物です。ちょっと絵の上手い子が手慰みに想いをこめて描いて渡しただけのプレゼントじゃない。
自分の創作物をあんなふうに切り刻まれているというのに、抵抗もせず泣き叫ぶだけのキャラクターというのは、やはり都合よく配置されただけの存在に見えてしまいます。

長編小説を2時間の映画にするわけで、割愛・変更される部分が多く発生するのも良く分かります。
幼馴染4人組が3人組になったことも、サリーと一度離れ離れになるのが高校時代になったことも、横浜ではなく埼玉の設定になったのも、大学に通う設定がなくなったことも、特別なにか大きな意図があるわけではなくて、単に映画の尺やロケ地の問題だったのだろうなと思う。
感性が響き合っているようなごっちとサリーの関係や、サリーのクリエイティビティが削除されてしまうのもいたしかたないのかもしれません。
それならば、木本同様サリーのことももう少し引っ込めて、それよりも、りばちゃんとごっちの「恋や愛の類いではな」い関係を掘り下げたほうが映画として単純におもしろかったのでは?

行定監督は、『GO』を観た深作欣二監督に「俺のほうがもっと柴咲コウを良く撮れる」と言われたそうです。
本当にその通りだなと思う。『GO』も『世界の中心で、愛をさけぶ』も、「物語のために動かされている個性のない女性キャラ」を柴咲さんが演じていることを、もったいないと思っていました。
『ひまわり』も『今度は愛妻家』も、話の中心にいる女性キャラクターが「都合の良い物分りのいい女」すぎて、個性を感じることができなかった。

女性キャラクターをもし引っ込めたとしても、『ロックンロールミシン』や『遠くの空に消えた』を観る限り、男子/男性同士の物語が得意な作風だとは思わないのですが、観客へのストレスは少なかったのではないでしょうか。
ロックンロールミシン』も、加瀬さんの池内さんに対する憧れや嫉妬を深く掘り下げればもっと魅力的な映画になったのにともったいなく思う。あんなにクリエイティブな設定のりょうさんもトロフィー・ガールのような描かれ方で個性を欠いている。2002年の作品ですが、この時から『ピンクとグレー』に至るまで、この価値観はあまり変わっていないのだなと実感しました。


この映画について慎重に言葉を選んでいる原作者の加藤さんが、映画と原作小説の関係の理想についてこう仰っています。
「たとえば『カッコーの巣の上で』みたいに『映画が先だっけ? 小説が先なんだっけ?』となるぐらいまで、それぞれが広まってくれたら最高に嬉しいです」(ダ・ヴィンチ 2016年2月号)
監督もごっちとりばちゃんの関係をアマデウスサリエリの関係にたとえていましたね。
ミロス・フォアマン監督(『アマデウス』『カッコーの巣の上で』)の撮った『ピンクとグレー』が観てみたかったな。きっと濃密な二人の関係が観られただろうな。

行定監督の名前を挙げたのは、ジャニーズ事務所だそうですね。「映画らしい映画にして欲しい」という要望と、「行定監督はどうか?」という提案があったとプロデューサーの小川さんが仰っていました。
私はその二つの提案が等号で結ばれるとは思わないのですが、でも公開規模から期待できるよりも大きな数字を獲得したことを思うと、きっとこれが正しかったんだと思います。

ヒットを狙って作り、ヒットにつながっているのだから、これほど正しいことはない。

 


キャストは最高で申し分ないです。劇伴も良かった。
原作小説とはまったく違っても「ファレノプシス」は良い曲でした。ここぞというタイミングでギターver.やピアノメインver.が流れるところも効果的に感じます。
特に冒頭の、ごっちの死を目の当たりにしたりばちゃんが渋谷の街を駆け抜けるシーン。前半のラスト、ごっちの死体の第一発見者であるりばちゃんがマスコミに囲まれ、サリーと目が合うシーン、りばちゃん、ごっち、サリーが風船を見上げるシーン。「ファレノプシス」が、物語に統一感を持たせています。

また、「ごっちを演じるりばちゃん」を身にしみて感じられたところも良かった。
「自分の力で何やってるの」「りばちゃんみたいな人が必要なんだよ」など、自分が言われ、そして自分で書いた言葉を自分で演じたりばちゃんは、きっとごっちの・自分の言葉にぐさぐさと刺され続けていたのだろうと、強く実感することができました。

菅田さんのおかげで「成瀬」というオリジナルキャラクターにも愛着が持てましたし、そのおかげで、映画の隙も「自分たちで想像しても良い余白」として受け取ることができています。
りばちゃんと成瀬と「白木さん」のオリジナル世界での三つ巴も大変興味深いです。

気になる箇所は多分にあるけれど、それは行定監督のどの作品にも気になっているところで、つまり監督が発表された段階で多少の覚悟はできていたし、原作とは別物ということであきらめがついた。役者陣には大満足なのでその点においてこの映画を楽しめている。
というのが、私の映画感想の結論です。